いや、これはすごい。自分も参加したいぐらい。真ん中あたりにテクノ風のアレンジが・・・!
“思いつき” カテゴリのアーカイブ今日、久々にあった友人と昼飯を食べた。 その友人がぽろっと言った言葉が印象に残った。「本って、読まなきゃいけないってなると苦痛だよね」 確かにそうだと思う。読みたくもない本を読むのは苦痛だ。しかし、それでも読まなければいけない時がある。逆に、読んでいるとどんどん吸い込まれていく本もある。 大学院での勉強は、ほとんどが自ら読書することによるものだ、と自分は思っている。学部時代、僕は自ら積極的に本を読みにいく、ということがあまりなかった。代わりに、たくさんの科目を取った。「興味があるなら、できるだけ多くの科目を取っておこう」と思っていた。この方針は、アメリカ留学時も同じだった。 しかし、今となると、必ずしもこの考え方は正しくない、と考えている。「授業は、必ずしも学びのベストの形態ではない」ということだ。授業は一回90分。この時間の中で伝えられることなんてたかがしれている。まともな授業なら、授業の前にそれ相応のリーディングをさせて、授業でそれをさらったり議論したりするだろう。 これを考えると、授業というのは読書というメインの勉強についてくる、付録にすぎない。そして、90分を授業に使うよりも、読書していた方がよほど勉強になる、ということも十分あり得る。これで大学に来るために往復二時間費やしているとすれば、かなりいい授業でないと割に合わないということになるだろう。もっとも、授業には勉強のペースメーカーとしての役割もあるが、院生になってまで授業がないと読書をしない、というのはおかしい。本は、別に授業に行かなくたって読めるのだ。 だから、今期はあえて授業をあまり取らないことにした。それより、自分の専門としたい分野の論文や本をがっつり読んでいこうと思う。また、誰か経済に強い人を捕まえて、個人チューターをしてもらおうと思う。その方が、拘束時間の長い授業よりもおそらく自分に必要なことだから。 ふと思ったのが、勉強する、学問をする、って旅のようなものなのかな、と思った。 自分の興味のあることで、議論したり、論文や本を呼んだり、フィールドにいったりする。これが学問の旅。 授業は何だろう?これは、旅行会社のみたいなもので、社員(教授)が旅先ののスナップショットを見せながら、どこに何がある、ここは○○がみどころだ、などと教えてくれる。教科書は、ガイドブックだろう。写真や文を入れ混ぜて、おすすめスポットや、「これ絶対みるべき!」といったところを紹介してくれる。ゼミは、同じところを旅行する旅行仲間の集まる宿みたいなものか。レポートは旅行記にあたるだろう。 こう考えると、授業に出て教科書を読むだけでは実は不十分であることがわかる。それは、旅行会社の人と話してガイドブックを見ているだけで、旅ではない。ただ、いってみたいなーで終わってしまう空想旅行だ。そうではなくて、自分から読んでいくことで、旅にでるべきなのだ。旅行会社やガイドブックはその助けとしてあるのだ。 授業で指定された文献だけを読むにも勉強になるが、それは行き先の決まったツアーに参加しているようなもの。旅の醍醐味は、自分でふらふら面白そうなところに行ってみることだと思う。 では、もし学問=旅 であるのなら、学問で一番大事なことは何だろう? それは、楽しむことであるはず。 旅は、自分の好奇心が膨らんで、我慢できなくて行くもの。もしそれが誰かから強制されるものだったり、自分が楽しくないのであれば、それは「出張」であり旅ではない。 これから、また新しい世界に旅立っていきたいと思う。 偶然聞いた曲にものすごく惹きつけられることって、あるはず。 もちろんポップやロック音楽でもそれはありうるのだろうけど、自分の場合は、外国の、何十年も前から歌われているような古い曲にひきつけられることが多い。 今回は、Voicesというアルバムの、The Blue Mountain Male Chorusが歌う「Calon Lan」というイギリス・ウェールズの曲に虜になった。 いい、すごくいい。男声合唱最高。歌い方荘厳。ウェールズ語分からないけどカッコイイw。その魅力をここで伝えられないのが残念。せめて歌詞だけでも。イギリスのラグビーでも歌われるそうです。 Calon Lan Cytgan: Pe dymunwn olud bydol Cytgan: Hwyr a bore fy nymuniad Cytgan: 英訳: I ask not for ease and riches Chorus Should I cherish earthly treasure Chorus Eve and morn my prayers ascending Chorus 最近、もっと勉強しなければと思う。 友人のK.とこの前偶然九段下で会ったのだが、K.は一日12時間、司法試験に向けて勉強しているらしい。ただただ、頭が下がる思いだ。もちろん僕は司法試験を受けたい訳ではないが、一日12時間勉強したら、どれだけの知識・見聞が自分のモノになるだろうか、と考えると、憧れてくる。 僕は基本的には勉強は好きなので、苦にはならない。しかし、自分が何か勉強する、という時に、独学で勉強できない。それは、僕の欠点でもある。いつも、他の色々なことに手を出してしまい、一つのことを深く掘り下げる、ということを欠いている。だからこそ、自分で勉強していけるK.のような人が羨ましくなる。 アメリカに留学した時、僕は死ぬほど勉強させられることを期待していた。しかし、履修した授業はそれほどキツイ授業ではなかったので、それほど頑張らなくてもなんとかなってしまった(もちろん大変だったのもあるが)。だから、学んだ事も期待したほどには多くなかった。 このことから僕は、問題は授業の質どうこうではなく、自分の「誰かに自分を勉強させてもらおう」という姿勢であることに気付いた。勉強とは本質的には自分自身でやるものなのだ、と。多くの書籍を読んで、自分なりに考え抜くこと。このプロセスなくして、どんなに授業を取っても、ディスカッションをしても、深い知識を得ることは出来ないだろう。逆に言えば、授業を取ることは必ずしも(むしろ、しばしば)ベストな学びの体系ではないし、その時間で本を読んでいた方が得るものは多かったりもする。 大学院に入るに当たって、自分で学ぶ姿勢を身につけなければならない。さし当たって、もっと多くの本を読もうと思う。まずはヨーロッパ経済史の課題を読もう。英文なので30分後にすでに寝ているかもしれないけど・・・w と、今日満員電車で思った。 電車の中では大声で話してはいけないのは、常識と言えば常識だ。僕も小学校のころ、電車で大声で話してはいけない、と教わったのを覚えているし、今も大声では話さないようにしているつもり。 しかしこの習慣は、日本外ではあまり見られない。 以前、英会話を習っていたアメリカ人の先生が言っていた。「日本では、どうしてみんな電車の中で静かにするのかわからナイ。電車は図書館みたいに、皆が何かをしようとしている場所ではないデショ?」また、僕が東京を案内してあげた中国人も、成田空港からの電車の中で言う。「みんな静かで、気持ち悪い。」 なぜ、日本では電車の中では静かにしなければならないのか。なぜ、イヤホンからの音もれはマナー違反なのか。なぜ、楽しく笑ってはいけないのか。逆に、どうして道端ではそれらが許されるのか? これへの納得のある答えは、今は思いつかない。 あと、携帯電話のマナーもまた不可解な点が多い。 以前電車の張り紙は昔、携帯電話を「OFFにしてください」となっていた。しかし今は、「マナーモードにして通話はご遠慮ください」「 優先席付近では電源をお切りください」となっている。これはつまり、普通の席ならメール打ってもネットしてても構わないということ。つまり、大きな声をだすな、そしてペースメーカーに影響あるから優先席付近では使うな、ってことだろう。 しかし、ペースメーカーに影響なんて、本当にあるのだろうか?もしそうだったら、今の世界、ペースメーカーつけてる人はどこにもいけなくなりそうだ。隣を歩いている人の携帯がOFFになっている保証なんて、どこにもないのだから。 結局良く分からないのでした。 今日なんとなく、電気を消して風呂に入ってみた。暗い風呂というのもなかなか粋なもので、落ちつく。しかしあまりに暗かったので、脱衣所の扉を少し開いて光を取り込んだ。 この自分の行動から、一つの仮説が浮かんだ。人間は電気照明を得ることにより、個人主義的な側面が強くなったのではないか?と。 もし各部屋に電気照明がなければ、人々は皆扉を開いて 、少しでも多くの光を取り込もうとするだろう。扉を開けると、部屋が明るくなることはあっても、暗くなることはほとんどないからだ。ろうそくや油といった燃料を使うこともできるが、それらは限りある資源なので、できるだけ使わないようにするはずである。だから、扉を開いて、光を取り込む。それは太陽の光かもしれないし、月光かもしれないし、隣のろうそくの光かもしれない。そのような扉の開放は、人の交流を進め、そり濃密な人間関係を築かせるだろう。 例えば、昔は同じ部屋での共同生活が多く、親密な人間関係を気付くことが多かった。この共同生活はおそらく、照明を共有しなければならない、という実際的な理由があったから行われていたのではないかと思う。 しかし電気照明の登場により、扉を閉めていても、十分な光を得られるようになった。これにより人々は自分だけの空間に閉じこもることが容易になり、より個人主義的な側面を帯びるようになっていった・・・。 どうでしょう、この仮説は説得力があるでしょうか? 先日、バイト先のIT企業で、海外製のソフトをダウンロード購入した。これにより、作業効率が数万倍(リアルに)になった。これは、パソコン好きであることと、英語を比較的使い慣れている、というこという強みによる成果だ。 おそらく、英語(もしくは他のあらゆる言語)力には3種類の力がある。 1つ目は、英語を理解できること。つまり、聞いたり、読んだりすること。これは、受動的なもので、最もよく使うものである。英語は基本的に、話すよりは聞く方が多いだろうし、書くよりは、読む方が多いだろう。 2つ目は、英語を話し、書けるということ。これは、自分の言いたいことが表現できるレベルである。日本人が苦手とする分野である。 そして3つ目は、英語を「手段として使える」ということだ。これは読み書きといった言語能力ではなく、自分が英語を用いて可能性を広げられる、ということだ。 例えば、英語を使って、Google検索を行うこと。これは多くの場合、日本語サーチの数十倍の情報を与えてくれる。洋書を買って読んでみること。大学の電子ジャーナル集を使い、英文の論文を収集すること。海外製の優秀なソフトウェアを利用すること。さらには、海外で働いたり、学んだりすること。 上の例を見ても分かるが、英語を使う機会が最も多いのは、ネットである。よく英語が必要だとよく言われるが、少なくとも日本国内で生活する限り、英語が必要なことはほとんどない。だとすれば、どこで英語を使えばいいのか?それは紛れもなく、ネット上だと思う。英語を使うこことにより、ネットの世界は数百倍に広がる。 日本には、英語が出来るにも関わらず、それを用いない人が多い。これは、宝の持ち腐れだ。今の時代、ネットと英語を使えば世界中から情報を集め、人にメールを送り、通話すらできてしまうのだから。英語を学ぶ時に単語を覚えるよりも重要なのは、英語をとことん自分のために利用してやろう、というあつかましさなのだろうと思う。 以上、散歩しながら思いついた戯言でした。 |
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